街灯に照らされた霧雨が、雪に変わろうとしていた。
僕は、くもり始めた窓ガラスをそっと手でぬぐう。
世の最果て。僕はただ一人。
気付いた時には、この何も無い簡素な部屋に居た。
日めくりのカレンダーだけが、時を正確に表しているだけ。
一つしかない窓。
そこから何気なく覗いたその先に、むかし見慣れた停車場が見え
たときの、
僕の驚きと震える胸の内をどう言い表せば解かってもらえるだろ
うか。
喜びと哀しみ、懐かしさと苦しさ、切なさ、そして虚しさ。
様々な感情が波のように押し寄せてはさっと引いていく。
もう忘れてしまったはずの感情の、その無意味な繰り返しに長
く、翻弄された。
そして最後に残ったのは、怖れ。
明日君が、この窓から見える停車場にたたずむのではないかとい
う、怖れ。
眠れない夜に「さよなら」を告げられた。
太陽の光が、僕の生まれ育ったこの街がそのままだという事を教
えてくれる。
窓を開けると、氷のような風が僕を洗った。
息が、白い。
そして街路樹も、道も、屋根も。
一面の、銀白色。
その中であの停車場の煉瓦だけが、赤く、僕を静かに待ってい
た。
そうして僕は一日中を窓辺で過ごした。
何台、窓から見送っただろう。
最終だろうか。長めに昇降口を開けたバスが、ようやく今、出発
して行った。
日が暮れたことにさえ気がつかなかった。
空腹感などなかった。
そして停車場には誰も居なくなった。
知った人は誰も来なかった。君も、来なかった。
カタカタと鳴る窓を閉めようとした時だった。
街灯にほのかに照らされた、一つの影が僕の視線をかすめた。
君だった。君、だった。
ゆっくりと近づいて来る。
ベンチに腰掛ける。
手に持っていた荷物を横に置いて、息を手に吹きかける。
髪を整える仕草。フードから現れた、変わらず長い黒髪。
ああ、君だ!間違いない。
その瞬間、僕は走り出していた。
目の前には、君。
少し痩せた体。心細そうな背中。
それらが僕の胸を締めつけた。
紺色のコートにクリーム色のマフラー、お揃いの手袋。
あの時と同じだった。
僕が故郷を離れ、夢見て飛び立っていった日。
この停車場から、君は僕を見送ってくれた。
きっと前日は眠れなかったのだろう。
泣きはらした目でそれでも、僕の夢が叶うようにと言ってくれた
ね。
今、遠くを見ている君の目。あの日の君と重なる。
君を残していった日、三年前のあの日とも。
近くの教会からミサ曲が聴こえる。
静かな夜だ。
鐘が鳴る。魔法をかける鐘が鳴る。
君が僕の方を見る。君の瞳が驚きに彩られる。君が立ち上がる。
全てがモノクロのスローモーション。
その瞳から涙があふれるまでに、時間はかからなかった。
「どうして?」と君は呟いた。
しゃべることは出来なかった。僕は首を振るしかなかった。
君の細い指は、僕には届かない。全て、すり抜けてゆくだけ。
僕ほど君を愛せる人間はいないと思っていた。
僕ほど君を幸せに出来る人間はいないと思っていた。
だから、それが叶わなくなった時。
側にさえも居られなくなった時。
その時、僕は狂ってしまったのかも知れない。
一年に一度でもいい。この聖夜。ただ会いたくて。
苦しめるつもりなど無かった。
哀しませるつもりなど無かった。
泣かせるつもりなど。
君にはきっと判るのだろう。
まだ僕がこの世のどこかに居ることが。
それ程僕たちは、強く結ばれていた。
どんなに離れていても、その存在を感じられるくらい。
三年。三年かかった。
三年かかって、やっと気付くことが出来た。
苦しめているのは、哀しませているのは、泣かせているのは、僕
なのだと。
君の夢を叶えてあげることは出来ないのだと、僕はやっと解かっ
たのかも知れない。
だから僕は今日で終わらせなくてはいけなかった。
三年という月日の執着を。
この世にとどまり続けることを。
三度目の正直。
忘れることは罪では無い。
約束はもう、叶えられることはないのだから。
泣いている君を、抱きしめてあげることはもう叶わない。
雪がちらつき始めた。
君が天を仰ぐ。涙がまた頬をつたった。
雪は、僕と彼女の隔たりを際立たせるばかり。
雪よ、雪よ。
全てを染めてくれないだろうか。
彼女の心も想いも、真っ白に。
もう彼女が泣かなくていいように。
たとえ泣いたとしても、守ってくれる誰かが側に居るように。
祈るから、心から。
もうすぐ魔法が解ける時間。
これで終わり。これが最期。
我が儘がもし許されるなら、どうか君よ、笑って。
笑顔で見送って欲しいんだ。笑顔が、見たいんだ。
雪は全てを白く染めて、きっと約束を果たしてくれることだろ
う。
だから僕は安心して、祈り歌って逝くよ。
君のために。
君の幸せのために、輝く未来のために。
涙よ、
2001-11-27 sayu
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